ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。 nyankosenpai, ”酒井康がわるいんだよ” / takaBSD, ”USAでは、ロックバンドのレコーディングでも、スタジオ・ミュージシャンを使う文化は残ってるけど。特に1st.アルバムでは。 それが原因で0点だとしたら、この雑誌の編集部員が音楽を知らなすぎ! Die Verordnung vom 30. d) Damit entfällt die vorübergehend ermöglichte Erteilung von entsprechenden Genehmigungen in Auslandsvertretungen der DDR bzw. ルーマニア革命, 第二次世界大戦後に敗戦国であったドイツはソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの戦勝4ヵ国による分割占領が行われ、その中で首都ベルリンも終戦直後に戦勝4ヵ国の共同管理地域とされ、やがて東西の対立とともに1949年に東西2つの国が成立して、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は、ソ連からの大きな経済援助と軍事力で社会主義国として東側陣営に属し、西側陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)とで、ドイツは分断された。そして首都ベルリンもソ連側管理地区の東ベルリンと米英仏3ヵ国管理地区の西ベルリンに分断された。ただし1961年夏まではベルリン市内での東西の往来は自由であった。, しかし1961年8月13日に突然東ドイツ側がベルリン市内の東西の往来を遮断し境界線近くに壁を建設して、ベルリン市民の東西間の自由通行はこの日に断絶された(ベルリンの壁)。これは東西に分かれて以後東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらず、1945年から1961年までに東ドイツから西ドイツに移った人々は約300万人に達し、その半数以上が当時自由に行けた西ベルリン経由で西ドイツに逃れていた。危機感を持った東ドイツは西ベルリンが逃亡への出口になっていることから、西ベルリンを壁で塞ぎ東ドイツ国民を閉じ込めるために建設したもので、これを「反ファシズム防壁」と呼んだ[1]。国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、或いは運河が、また橋の真ん中が国境線であった。以後東西のベルリン間での市民の行き来は不可能となった。, ベルリンは戦後の東西冷戦の最前線であり、1961年8月に突然出現したこのベルリンの壁は東西冷戦の象徴であった。, しかし西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇は後を絶たなかった。1961年8月から1989年11月までの28年間で5000人以上が越境して逃れ、約200人以上が越境できずに命を失い(その多くは国境警備兵による射殺と河を泳ぎきれずの溺死であった)、約3000人以上が越境を試みて失敗し逮捕された[2]。, 東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[3]。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[4]。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決を受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。, 壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は、運よく西へ逃れた人以外は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺されるか、或いは途中で力尽きて溺死か転落死であった。, 壁の建設は、東ドイツの体制が強制に依存しており、住民が国土を離れることを妨げる以外に暴力によってその崩壊を回避できないことを示すもので、ソ連がヨーロッパの前進地であるドイツを放棄するつもりが無く、その崩壊を手をこまねいて見ていることができないことを証明した。そしてこの措置は西側に対決するものでなく、東ドイツ人にとっての利益に対立するものであった[5]。そしてソ連のフルシチョフ首相とアメリカのケネディ大統領の間で、暗黙の了解として、西ベルリンの米英仏3ヵ国の駐留権、及び西ベルリンへの自由通行権、西ベルリン市民の政治的自己決定権を侵さないことを前提にした壁の建設であった。それまで米ソ首脳を悩ましたベルリン問題は、1958年のフルシチョフの自由都市宣言の最後通牒の主張から大きく後退して、以降安定し固定化した。, それは東ドイツの人々にとって、以後東ドイツを離れることができなくなり、彼らの不自由はもはや逃れることのできない運命となったことを意味した[6]。また体制に反対する人々の大半は脱出して、単に労働力の流出を防止しただけでなく、現在の状況と折り合っていく道を選ぶしか無いという意識を人々に与えたことの影響は大きく、ドイツ社会主義統一党にとっては国家運営がしやすい環境が整備された[7]。, ソ連は東ドイツの創設者であり、長年にわたり事態発展の成り行きに影響を及ぼし、東ドイツの存続の生殺与奪権を握っており、壁崩壊で東ドイツが消滅するまでそうであった。東ドイツが国民を実質的な監獄体制下におき、本質的に抑圧に基づいていたことは、鉄のカーテンとベルリンの壁によって物理的な力で国の安定を保障し、それに依存していたことで、政治的には破綻した国家であった[8]。, 一方で、1970年代に入ると東西ドイツ間で相互を実質的に国家承認、国交が樹立し、大規模な経済援助なども行われた。, 東ドイツ経済は、1960年代にはある程度の自由主義経済を取り入れることによって発展し、東側陣営では随一の繁栄を誇った。しかし、1973年の第一次石油危機のあと、経済当局の組織硬直により、産業構造の転換に失敗し、東ドイツ経済は不況に陥る。ホーネッカー指導部は危機打開のために、東西ドイツ基本条約(1972年)で事実上の「国交」を結んだ西ドイツから経済援助を受け、これを助成金として国内各所にばらまくことで経済を成り立たせていた。, この事実はホーネッカー退陣直後に暴露されたが、すでに東ドイツ経済は経済援助に頼りきりになっており、収支バランスを均衡にするためには東ドイツ市民の生活水準を30%前後切り下げる必要であった[9]。この時点ですでに人口流出が止まらなくなっており、この暴露からほどなくして東ドイツは消滅した。, 他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味するため、東ドイツ政権は1980年後半に東欧に押し寄せた改革の波に抗い続けていたのである[10]。それは東ドイツが他の東欧諸国にない厳格なイデオロギー国家であり、ナショナル・アイデンティティが欠如して、それだけマルクス・レーニン主義が他の東欧諸国よりも重要な意味を持っていた国家であった[11]。それを一番強く意識していたのが他でもないホーネッカーら党指導部であり、あくまでも教条主義的なマルクス・レーニン主義に固執する以外に国家が生存する道は無いと考えていた。, ホーネッカーは1980年代に入ってからのハンガリー人民共和国やポーランド人民共和国での社会変革の動きに対して、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。西ドイツと明確に異なる東ドイツの存在意義は、対内的にも対外的にも「壁」の存在なしには成り立たないものであり、そのために徹底した思想・言論統制を行っていたのである[12]。国内にはポーランドのような「連帯」運動も、ハンガリーのような慎重にソ連と協調しながら勢力を増した「党内改革派」もなく、体制に不満を持つ人は壁の建設以前に西側に移り、壁建設以後は政治犯として収監されて西側へ追放されてしまい[13]、体制に不満な部分はわずかにキリスト教会の活動に押し込められていた。, 1989年以前の東欧諸国では、国家が国民に西側に旅行できない制限を課して、移動の自由が無い状態が続いていた。東ドイツの一般市民にとっては同じ東欧諸国への旅行でさえも制限があった。1989年の民主化要求のデモにおいて「旅行の自由」が求められていたのも、こういった事情があった[14]。, 東ドイツ市民が比較的自由に行けたのはチェコスロバキアで、身分証明書の提示だけで旅行が可能であった。民主化が進んでいたポーランドへは1981年以降は公認旅行社が主催する旅行か招待状によるものでしか許可されなくなった。他のブルガリア、ハンガリー、ルーマニアへはビザ不要であったが、旅券の他に東ドイツ政府が出す「ビザ免除旅行証」という許可証を入手しなければならなかった。私的旅行には3種類の区別があり、第1番目はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、モンゴル、北朝鮮の8ヵ国への旅行。第2番目は、年金資格を得る年齢に達した人々の旅行。第3番目は、その他の年金資格を得る年齢に満たない人々の旅行であり、近親者の冠婚葬祭や病気見舞いなどの際に当局に許可の申請を行うものであった[15]。, この旅行の自由、移動の自由を求める動きは、壁の建設後は体制の抑圧で窒息状態であったが、1980年代後半になってから顕在化し、東ドイツ政府の頑なまでの対応がやがて自国民の大量出国を招き、その対応で新しい方針を打ち出す際にミスを犯し、その結果は壁の崩壊を招き、東ドイツの消滅につながった。, ソ連では1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが「ペレストロイカ」政策を発表、東欧諸国にも推進を勧め、多くの国はそれぞれ改革を始めたが、東ドイツにとって社会主義体制の放棄は分断国家としての独自性、国家分断の正当性を放棄するに等しいため、改革の実行を拒否、一部の反対派を逮捕・拘留して弾圧するだけであった。さらにホーネッカー指導部は「東ドイツカラーの社会主義」というプロパガンダを打ちだしてゴルバチョフと対立、ソ連メディアの情報にさえ検閲をかけ、1988年11月にはソ連の雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』に対する郵便・新聞管轄局の認可を取り消し、事実上の発禁処分とした[16]。, また、1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは西ベルリンを訪問し、ベルリンの壁の前での演説で「Mr. ビロード革命 第2次世界大戦の敗戦を受け、ドイツはアメリカとフランス、イギリス、ソ連の4か国によって統治されることになりました。米仏英によって統治されたのが、資本主義の西ドイツ。そして、ソ連による統治を受けたのが、社会主義の東ドイツ(ドイツ民主共和国)でした。 ベルリンは東ドイツ領内に位置していましたが、ドイツ統治の要とみなされたことから、西ベルリンは米仏英、東ベルリンはソ連によって共同管理されること … シュタージ「東ドイツ秘密警察の恐るべき監視社会」 ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。 その一方で、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まり シュプレー川 沿いの約1.3kmの壁( イースト・サイド・ギャラリー ( ドイツ語版 ) )は残された。 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった[36]。これを見たポーランド統一労働者党のミェチスワフ・ラコフスキ(英語版)第一書記は、ゴルバチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフは「ドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がする」と答えた。ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、次のようにゴルバチョフに教えた。, 7日夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の言葉を述べていたという。ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会を行っていた[38]。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのままシェーネフェルト空港へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという[39]。この日の夜、全体で547人が拘束された[40]。, こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。, 10月9日、ライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「我々が人民だ(ドイツ語版)(Wir sind das Volk)」と政治改革を求める大規模なものとなった。ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また期待していた在独ソ連軍が動かず失敗に終わった[41][注 2]。, こうした東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせた政権ナンバー2のエゴン・クレンツ(SED政治局員兼治安担当書記、国家評議会副議長)や党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーらは、まず10月10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた[注 3][42]。今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全くの逆効果に終わった[43]。特にポツダム地区第一書記のギュンター・ヤーンはほとんどあからさまに退任を求めた[44]。, 勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらはヴィリー・シュトフ閣僚評議会議長(首相)やソ連の指導部とも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した[45][注 4]。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。, 10月17日[注 5]午前10時、社会主義統一党中央委員会の政治局会議[注 6]が始まった。いつものように議事を進行し始めたホーネッカーに対し、突如シュトフ首相はホーネッカーの書記長解任を中央委員会に提案するよう要求した。これにはホーネッカー以外の政治局員および政治局員候補の全員が賛成を表明し、ホーネッカーは自らの解任動議を可決せざるを得なかった[46]。10月18日、中央委員会総会でホーネッカーは正式に退陣し、エゴン・クレンツが後任の書記長に選出された。そして10月24日に人民議会で国家評議会議長及び国防評議会議長にも選出された。しかしこの人民議会でそれまで全員一致が慣行であったのが、国家評議会議長で26票の反対、27票の保留、国防評議会議長で8票の反対、17票の保留があった[47]。, エゴン・クレンツはホーネッカーが設立した自由ドイツ青年団議長を務めた人物で、ホーネッカーの子飼いの部下であり、この時にホーネッカーに反旗を翻したものの、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった[48]。クレンツが直面したのはこの信頼性の欠如であった。5月の自治体選挙における不正の中心的責任者であり、市民デモへの警察の鎮圧の直接の責任者である治安担当書記であったことがその理由であった[49]。, しかも一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうと思ったクレンツは、書記長に就任してすぐに驚くような報告を受けた。国家計画委員長ゲアハルト・シューラーから国家財政の破滅的な状況について知らされたのである。負債額はこの15年間に12倍に膨れ、年間100億マルクのペースで増え、粉飾決算を繰り返して西側の融資を得ていたが、これが明らかになれば東ドイツの評判は落ち、差し迫った問題として次の利払いに充てる資金が無く、西ドイツからの短期融資の支援が必要であるとのことであった[50]。, クレンツは11月1日にモスクワに行きゴルバチョフと会談した。そして金融支援を懇請したが「我々は支援を提供できる立場にない。ソ連に支援を頼るべきでない。」と固辞された。そしてデモで揺れる国内の情勢から「大衆デモが壁を突破しようとする可能性があり、警察が介入し一定の緊急事態も想定される」とクレンツが発言すると、ゴルバチョフは政治的恐喝と受け止め、「ソ連の軍事的支援を期待することはできない」、「国民の大量出国と壁の問題はあなた方が解決すべき問題で、すぐに解決しなければあなた方に大変な問題が起こる」と告げられて、何の成果もないままベルリンに戻った[51]。, この間に3週間前に閉鎖したチェコスロバキアとの国境を11月1日に再開し、11月3日に東ドイツとチェコ政府とで協定を結び、再びビザなしでの旅行を認めチェコと西ドイツ国境の開放を承認した。再び膨大な数の東ドイツ市民がチェコに入り、身分証明書の提示だけでチェコスロバキアはすぐに西ドイツへの国境通過を認めた。このルートで僅か3日間で5万人以上が東ドイツを離れ[52]、そして多くの東ドイツの人々がプラハの西ドイツ大使館に流れ込んだ[注 7]。, 11月4日に、首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり[53]、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツ政権も十分に状況を把握できなくなっていた。, この年の11月までに約25万人が東ドイツを離れていった。それも平均30歳未満の若者が多い。ライプチッヒでは市内のバス運転手の半数が出国したため退職者が職場に戻り、軍の兵士もバス運転に動員されていた。地方では砂糖もアーモンドも小麦粉も手に入らずパン屋が苦労している、食料品や生活必需品が倉庫に山積みされたままになっているなどの話があり、トラック運転手が姿を消したためという。市の担当者が立ち去ったために建物のヒーターが使えず水道の蛇口をひねっても水が出ない状態になっている。鉄道が時刻表どおりには走っていない。ブレーキ係も配電盤担当も機関士も出国したからである。夕方勤務を終えて帰宅し翌朝には職場に現れない[54]。, ドレスデンのメーカーに所属するサッカーチームがチェコスロバキアに休暇旅行に行って戻ってきたのは半数しかいなかった。監督は「工場で、毎朝今日は何人が出勤するかも分からない状態でどうやって工場を運営するのですか」と語った。高い技能を持つ専門家ほど去って行く人数は多い。ある有名な医療施設では夏休み期間中に三分の一が戻って来なかった。東ベルリンのある病院では数カ月の間に41人の医師・看護婦が姿を消した。もはや閉鎖寸前に追い込まれている病院もあった[55]。, 1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。この法案では西側への旅行は許可されるとしたが、しかしそれは年間30日以内と限定された上に出国の際には相変らず国の許可を要することや「特別な社会的要請があった場合」には許可が取り消されるなど様々な留保条件が付けられていたため[56]、翌日に既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された[57]。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにした[58]。そしてこの11月7日に政府閣僚は全員辞職した[59]。, 11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任し、ヴィリー・シュトフ首相やエーリッヒ・ミールケ国家保安相らの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、ハンス・モドロウを後継の首相に任命することが決まった[注 8]。, この後ようやくクレンツは、東ドイツ国内の世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した[60]。しかしこの日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった。党は自己批判と相互告発の猛威にさらされて力を使い尽くしていた[61]。, この日、前日からのドイツ社会主義統一党中央委員会第10回総会の混乱は続いていた。経済学者ゲアハルト・シューラー(ドイツ語版)国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告され、これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた[62]。そして内務省では新しい旅行に関する政令案の作成作業が進んでいた。, この日までにクレンツは恒久的出国(国外移住・永住出国・常時出国とも呼ばれる)[注 9]を認めることで新しい政令を作成するように指示していた。新しい政令案の作成作業は朝から進められていた。内務省と国家保安省(シュタージ)の4人からなるこの作業チームは、チェコのプラハに滞留している東ドイツ難民の処理に苦慮していた。結論はビザ取得の手続きを進め渡航を許可することとし、そして「恒久的出国」(あるいは国外移住・永住出国・常時出国)についての検討を加える中で、留保条件を付けずにいつでも申請可能な個人旅行の規定をあっさりと草案に盛り込んだ[63]。, 元々の草案は永住出国の希望者を対象としたもので、西ドイツの親類に会ったり、短い休暇を取ったりするための一時的に越境をしたい人は含まれていなかった[64]。しかしこの作業チームの一人である内務省旅券局長ゲアハルト・ラウターが後に語っていたが、永住出国は認めるが一時的な外国旅行は認めないという施策は、例えば西側に移り住むのはできるが普通に旅行することはできない(戻って来ない永住出国であれば認めるが、戻ってくる外国旅行であれば認めない)ことになり矛盾し整合性に欠けていて、現実的には不可能なものと考え直し[注 10]、土壇場で書き直して、手続きを簡略にして、個人的な旅行も申請さえすれば認めてその後の再入国もできるようにする、という結論であった[注 11]。最終草案には壁の開放は宣言していない。ただ「パスポートとビザを有する者は誰でも東ドイツと西ドイツ及び西ベルリン間の国境検問所を通過して、永久にあるいは一時的に国を離れることができる」と述べて、そのために東ドイツ国民は出国許可を申請しなければならない、として国の一定の管理を担保するように考えられた案であった。そして明日、11月10日金曜日に発効する、と草案は明記していた[65]。, 午後3時過ぎ[注 12]、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し[67]、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。それは以下のようなものであった。, クレンツは新しい旅行法を施行するまでの過渡的な規定として、この文書を読み上げ提案した[70]。そしてこの提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。, この新しい政令について、作業チームが提出した文書には「旅券を所持している東ドイツの全ての人民は、いつでも、ベルリンを含むどこでも国境警備のチェックポイントを通って出国することを認めたビザを取得する権利を有する。旅券を持たない人民も出国の権利を付与する特別のスタンプを押した身分証明書を所持することができる。」と書いてあった。そして中央委員会でクレンツは「11月10日から効力を発効する。」「明日、11月10日に国境を開放する。」と説明している[71]。そして「東ドイツにとってプラスにならないあらゆることが第三国を通じて行われており、問題を解決するにはこれ以外の方法はない。」と述べ、この時に「暫定的」の文言の削除とともにフリードリヒ・ディッケル内相から公表は内務省でなく、閣僚評議会から行うべきとの意見が出て、クレンツは「分かった。政府スポークスマンがそれを直ちに行うように、私は言う。」と発言している[72][注 13]。, この時にクレンツは東ドイツ市民は誰でもベルリンの壁の検問所に行けば通行が認められる、などとは思わなかった。とんでもないことを意味するものがそこにある、とは思わなかった。それまでと同じく旅行許可を役所に申請しなければならず、これで大量出国の問題について時間を稼ぎ鎮静化できると考えていた[73]。, この時に社会主義統一党中央委員会政治報道局長に就任したばかりのシャボフスキー[注 14]は、午後6時からの記者会見のためにクレンツの執務室に入った。この時にクレンツはシャボフスキーに政令文とプレスリリース用の文書を手渡して「これを持っていけよ。きっと役に立つから。」と述べた。しかし細かい説明はしなかった。文書の「今から」が「明日11月10日から」と念押しなかったことが、この決定的瞬間に致命的な誤りとなった[74][注 15]。シャボフスキーはこの政令案の討議の時には中央委員会にはいなかった。, シャボフスキーは、午後5時50分に中央委員会の席を離れて、すぐ近くのモーレン通りにある記者会見の会場(国際記者会館)に公用車に乗って向かった[注 16]。彼はクレンツから渡された書類に目を通そうにも公用車の車内が暗いためよく読めないまま、すぐに記者会見の場に到着し、午後6時から記者会見が始まった。この西側各国との記者会見は、ウルブリヒト時代から行われていたが、それまであくまで東ドイツのプロパガンダの場であった。新政権発足後はほぼ毎日定例記者会見を行い、既に十数回の会見を行ってきた。しかも後にシャボフスキーが述べていたが、この日から新政権の新しい試みとして中央委員会の内幕とそれに対する質問を許可することとなり、記者も政権側も不慣れなやり方であった。この西側各国との記者会見には400人の記者が集まっていた[75][注 17]。この記者会見は東ドイツ国営放送で生放送された。, そして始まってから1時間ほどは中央委員会での諸決定について型通りの報告で行政改革や閣僚の交代といった退屈なものであった[注 18]。, 午後6時53分、記者会見が終わりに近づいた時に、イタリア国営通信ANSAの主席通信員リッカルド・エールマン(イタリア語版)が質問に立ちマイクをとった[76][注 19]。, 実はシャボフスキーは中央委員会の席に居ながら、事務方との打ち合わせで委員会を何度も中座しては出入りを繰り返し、この当該文書の仔細を把握していなかった。この不正確な情報しか持たず、思い違いをしていたことは、この日の社会主義統一党中央委員会が混乱していたことを反映していた。この重要な思い違いが事態をさらに悪くしてしまった上[78]、さらに政令案の通知文が既に記者達に配布済という勘違いを前提に公式の書面を把握していない記者の質問に答える事になった。, ここでシャボフスキーはクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、勝手が違ったように戸惑いながら早口で書類を読みだした。, この直後にアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者から「ベルリンの壁はどうなるのか?」「西ベルリンに東ドイツ市民は行けるのか?」との質問があった。シャボフスキーはこの時に文書の隅々まで調べて、ある文章を発見した。それには「西ドイツ及び西ベルリンへの越境は許可される」と書かれてあった。そしてそのまま伝えて、質問に肯定する素振りを見せた[83]。「常時出国は東西ベルリン間を含む東西ドイツ間のどの国境検問所からでも行える。」[84]。, これでシャボフスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と、勘違いで発表してしまったのである。「東ドイツの全ての国民が東ドイツの国境検問所を使って国を離れることを可能にする」「外国への個人旅行は現在のビザ要件を提示したり、旅行の必要性や家族関係を証明したりしなくても申請できます。旅行許可は短期間で発効されます」「遅滞なく発給するように指示されます」と述べたのであった。, この政令案はこの日中央委員会で承認されたが、まだ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず、正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボフスキーは閣議決定されているものと勘違いしていた。そしてシャボフスキーの発言の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が政府報道官の発表として伝えている[85][注 23]。, この政令案は、明日11月10日に発表し、直ちに発効すると定められていたが、シャボフスキーにはそれを伝えられていなかった。シャボフスキーに渡された政令案の文書が10日に報道発表するための文書で、上記の政令案の素案と違って、発効期日は書かれていなかった[86]。, 東ドイツでは言論統制で出版物や新聞・雑誌の発行及び西側からの持ち込みも禁止されていたが、唯一電波だけは防止することができなかった。東ドイツ領内の中心に位置するベルリンの西側から電波を発信していて東ベルリン120万人が西側の全国ネットの放送局西ドイツ放送連盟(ARD)と第二ドイツテレビジョン協会(ZDF)を視聴できた。この他に西ベルリンを含む東西ドイツ国境沿いで8カ所のテレビ塔を立てて東ドイツ国内に自国のテレビ番組が見られるように電波を飛ばしていて[注 24]、南東部のライプツィヒやドレスデン一帯には地上波は届かなかったが(その代わりパラボラアンテナで衛星放送が受信できた)、およそ東ドイツの7割近くが受信可能であった[87]。, この11月9日夜の記者会見の模様は、東ドイツ国営テレビのニュース番組において生放送されていた。東ベルリンも西ベルリンのテレビ電波が受信できるので東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった。, またラジオも同様であった。西ベルリン市内に中継局が存在する西ドイツラジオ局の他、夜になると電離層反射で遠くイギリスやスウェーデンの放送も受信することができた。短波放送に至ってはアメリカ合衆国や日本のものさえ受信可能のケースがあった。, そしてこれを見ていた東西両ベルリン市民は戸惑い半信半疑となった。この発言が出た時、時刻は午後7時を少し回っていたが、それから4分後にはロイター通信・ドイツ通信(DPA)・AP通信の各通信社は速報を出した。混乱してロイター通信とドイツ通信は『旅行に関する新しい取り決め』があった事実に重きを置いた打電であったが、AP通信は「境界が開かれる」と打電している[88]。7時17分に西ドイツのテレビ局ZDFがニュース番組「ホイテ(今日)」で放送し、7時30分からの東ドイツ国営テレビのニュース番組「アクテュエレ・カメラ(今日の映像)」では2番目にこのニュースを伝えた。ただどちらも「旅行に関して新しい規則ができた」と報じただけであった。, しかし7時41分にドイツ通信(DPA)は「西ドイツと西ベルリンへの境界が開いた」と打電し、そして午後8時に西ドイツのテレビ局ドイツ公共放送連盟(ARD)がニュース番組「ターゲスシャウ」で冒頭にアンカーマンのハンス=ヨアヒム・フリードリッヒが「今日11月9日が歴史的な日となりました。東ドイツが国境を開放すると宣言しました。」と報道した[89]。またほぼ同時刻に、記者会見の場で質問に立ったアメリカNBCのトム・ブロコウ記者が、ブランデンブルク門の所にある検問所付近の壁を前にして「これは歴史的な夜です。東ドイツ政府がたった今、壁の向こうへ通行できると宣言しました。何の制限も無しです。」とNBC放送の電波に乗せて全米にレポートした[90]。, 東西ベルリン間の国境検問所は、ボルンホルム通り[注 25]・ショセー通り・インヴァリーデン通り・フリードリッヒ通り[注 26]・ハインリッヒハイネ通り・オーバーバウム橋・ゾンネンアレーの7カ所あり、やがて検問所の前に市民が集まり、通過しようとする市民と政府から何も指示されていない国境警備隊との間でこの記者会見でのシャボフスキーの発表を巡りトラブルが起きた。しかもそれは東側だけでなく、西側でも同じで、誰もがテレビで伝えられた「旅行が自由化される」というニュースに驚き、殺到したことで西ベルリン側の検問所も混乱に拍車が掛かった。, 国境警備隊は指令を受け取っておらず、隊員は報道も知らなかったためにすぐに対応はできなかった。しかも、各検問所は保安上の理由から直接横の連絡ができないシステムであった。集団亡命を恐れて東ドイツは各検問所同士の連絡を禁止し、必ず上部機関の指示に従うことになっていた[91]。これが各検問所ごとにバラバラの対応となり、しかも指示をすべき上部機関が内務省から何も指示が無く対応方針が出せない状態になり、そして現場の責任者の判断に委ねることとなった。そのことが各検問所ごとに国境ゲートの開放時刻が違う結果を生んだ。, 東西ベルリン間の7カ所の検問所付近に間もなく多くの東ベルリン市民が集まり始めた。また反対側には西ベルリン市民も多く馳せ参じた。, この時、ベルリン北部のボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官[注 27]
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