こうして、徳川家の祖霊を祀る日光東照宮の威光が確固たるものになり、歴代の将軍家をはじめ諸大名が日光に詣で、さらに朝廷からは毎年奉幤使が参向するという慣例がしかれるようになった。将軍の日光参詣は「日光社参」と呼ばれ、しだいに膨大な行列をしたてることになり、朝廷からの公家らの参詣も盛んになって日光街道や例幣使道などが整備された。併せて一般庶民の参詣も盛んになり、門前町や宿場も整うなど、日光東照宮の鎮座がもたらした影響は江戸時代を通じて多大なものとなったのである。, 明治維新による徳川政権の崩壊は、徳川家の権威の象徴であった東照宮を祀る日光にとって大きな衝撃となった。いわゆる「明治の御瓦解」である。明治政府による神仏分離・廃仏毀釈の政策は、神仏習合信仰によって成り立っていた日光の大改造を迫るものであった。輪王寺宮は廃され、二十五院と八十坊あった寺坊の組織をはじめ、御神領や日光山内の諸管理を行なっていた日光奉行も撤廃された。さすがに、日本一の結構美を誇った日光だけに、保存運動の成果もあって、山内の仏教施設の破却・分離行為は最小限に留められ、三仏堂と相輪木棠の移転にとどまった。そして一時は満願寺という寺号までまとめられた寺院組織は、輪王寺の寺号が復活され、十五ケ院による構成で再出発することとなった。さらに、東照宮と二荒山神社の社格が定められ、「日光二社一寺」としてそれぞれ存立し現在に至っている。 だが再び、日光山大変革の明治維新を迎えた。慶応3年(1867)、輪王寺門跡法親王宮は断絶する。翌年、戊辰戦争が起こった。戦火は近隣まで迫るが、日光山衆徒の尽力により堂塔伽藍は今日に残された。神仏分離令の太政官布告は、旧来を一新し、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺となる。明治以後は、交通機関の発達に伴い、外国人や文人墨客の来訪する景勝地となり、学術研究の場としても注目される。次第に日光のすばらしさは内外に紹介されるようになり、近代観光地をめざして急速に発展した。 日光にある樹齢500年の美しい金剛桜とその由来とは・・・ 奥日光に佇む温泉のあるお寺・温泉寺にいってココロと身体を癒そう! 日光開祖の人物・勝道上人自身が造った立木観音とは・・・ 日光の輪王寺の本堂・三仏堂の歴史とそして現在の姿とは・・・ しかし、こうした変革は、一面では日光の地がそれまでの宗教的な緊縛から開放され、新たな近代化の道をいち早く開くこととなったのである。東照宮をはじめとする豪華絢爛な建造物群に加え、日光連山全域の大自然の環境が、霊場としての制約を解かれ、観光地としてにわかに活気づいてくるのである。それはまず、女人禁制であった奥日光への解禁(明治5年)を端緒として、一気に多くの人々が信仰を離れた目的で訪れる様になったことに現われている。また特筆すべきは、外国人による近代的な観光・行楽の場としての日光が早くから形成されていたことで、山岳登山やリゾート地として賑わいをみせていくのである。 徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉と並ぶ「戦国三英傑」と称され、歴女のみならず高い人気を有する武将です。死後は「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)の神号を授けられ、絢爛豪華な「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)に祀られています。 百科事典マイペディア - 勝道の用語解説 - 奈良時代末〜平安初期の山岳仏教の僧。生没年については737年―807年とする説もある。下野(しもつけ)の人。日光(にっこう)山を開き,中禅(ちゅうぜん)寺を建てたと伝えられる。桓武(かんむ)天皇より上野(こうずけ)の講師に任ぜられた。 日光の歴史は、天平神護2年(766)、勝道上人(下野芳賀郡高岡の出身)が霊峰男体山の登頂を志し、大谷川を渡って四本竜寺を創建した時に始まるといわれている。山頂を極めたのは16年後の天応2年(782)で、多くの苦難を伴い三度目の登攀での成功であったという。上人は男体山中腹の湖畔に神宮寺を創建、後にそれが中禅寺として繁栄した。以後、山麓の四本竜寺付近と共に、日光は山岳信仰の拠点として、近郷のみならず広く関東全域からの信仰を得て多くの修験者や僧が入山し、堂社も各所に … 旅の途中で見た日本の風景や人物の様子がひとりの外国人女性の視点で描かれ、驚き、感嘆、感動や失望までバード女史の率直な言葉で綴られています。当時の日光を知るための貴重な歴史資料でもありま … こうした伝説的な時代を経た後、古代末期の近隣の地方豪族の伸長に伴って、豪族出身の僧侶が別当に就く時代を迎えるのである。, 山岳信仰の拠点として次第に整備されてきた日光は、山岳信仰の上に神仏習合の信仰が加わって、「二荒山」(神が宿る山)と「日光山」(仏が護る山)の双方の名称を併用しながらその基盤を固めていったといえる。 江戸幕府を開いた徳川家康とくがわいえやすがこの世を去って約400年の月日が流れました。 江戸幕府は264年もの長い間続き、その後、明治、大正、昭和と年号を変え現代の平成に至っています。 徳川家康はこの間も、子孫や関八州などを見守ってきたと思われます。 太郎山 - 馬頭観音 - 太郎大明神 - 味耜高彦根命 - 本宮 徳川家光が、祖父徳川家康のために作ったものである。, 元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬されることとなった[4]。, 日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となり、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。, 寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、普請は、江戸はもとより京・大坂からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。, 家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州[5]の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。, 毎年の神事以外に、50年ごとに式年祭を行っており、家康没後およそ400年の2015年は式年大祭とした[6]。, 明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中の施設が一部にある(後述)。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。, なお、平成25年度から平成30年度まで(2013年~2018年の期間)に小西美術工藝社により「平成の修理」が陽明門でも行われている[7][8][9]。この修理の「三猿」の塗り直しにおいて「目がおかしい」との批判があった[10][11][12]。, 表参道の先に有る高さ9mの石鳥居は日本最大の鳥居である。福岡藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたもので、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られた。, 日光東照宮の建物には、多様な動物の木彫像が見られる。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、[要出典]もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。[独自研究? デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 日光円蔵の用語解説 - 1801-1842 江戸時代後期の博徒。享和元年生まれ。下野(しもつけ)(栃木県)の僧で晃円(こうえん)とよばれる。寺をでて国定忠次(くにさだ-ちゅうじ)の子分となり,忠次の軍師といわれた。天保(てんぽう)13年捕らえられて牢死。 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられることが多い。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、東照宮の公式サイトがホームページに「日光東照宮」と掲げており 、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」と呼ばれるこ … こうした意味で、日光は近代化を日本にさきがけて取り込んだ観光地として再生する道を築いたといえよう。, 日光山の歴史は遠く奈良の昔に遡る。天平神護2年(766)、勝道上人が山岳修行者として、はじめて日光の地に足を踏み入れ、四本竜寺を創建した。そして、補陀洛山(男体山)の絶頂にいたらんと苦修練行、遂に延暦元年(782)、大願を成就する。その後、地主権現を奉祀、神宮寺建立、千手観音像の造立など、日光山の基礎を創設した。弘仁8年(817)、勝道入寂ののちは第一の高弟教旻が当山第一世の座主となる。 ところが、天正18年(1590)、秀吉の小田原城攻めの際、日光山衆徒は壬生義雄とともに出兵、北条氏に加担した。秀吉は怒り、門前屋敷と足尾郷を残し、すべての寺領を没収する。僧徒は四散し、当山は滅亡状態となった。 参考1 【日光 二荒山神社 観光】本社・奥宮・中宮祠・本宮 4つの違いからわかりやすく解説. 歴史の世界には魅力的な人物が数多くいます。 そして魅力的な人物を知ることで、歴史のつながりそのものが見えてくることがあります。 しかし光があれば影が発生するように、歴史には未だその全容が明 … 明治維新により長年閉ざされた国であった日本にも多くの外国人が訪れるようになり、1874年の外国人旅行免状交付開始を境に日光を訪問する外国人も急増しました。金谷ホテルのゲストブックには数多くの歴史的人物の署名が残されています。 日光市のおすすめ歴史的建造物9ヶ所をセレクト!おすすめの東照宮 陽明門や東照宮唐門などを口コミランキングでご紹介。日光市の歴史的建造物スポットを探すならじゃらんnet。 (三山) (三仏) (三所) (三神) (三社) 世界文化遺産に指定されている栃木県日光の江戸幕府初代将軍・徳川家康を祀っている日光東照宮。家康が祀られるまでは、山岳信仰が盛んな地域だったことはご存知でしょうか。 なぜ家康はこの山深く、冷涼な地を選びきらびやかな装飾の元、日光で眠ることを決めたのでしょう。 人物 アーネスト・サトウ 参考2 【日光二荒山神社別宮 本宮神社&四本龍寺 観光】日光や日光山がどうして聖地となったか?ここにルーツあり. 日光は人工美と自然美の粋を集めた名所として、国内はもとより、諸外国にもその名を知られている。階段状に形成される山岳地形は滝あり、湖沼ありと、千変万化、四季折々の美しさは他所に例をみない。日光開山勝道上人は秀麗な山容に神仏を感じ、仏徒は険しい山岳に修行の道を求め、堂社を建立した。 紅葉のシーズンになると、観光客が大勢訪れる日光。そのもっとも著名な観光スポットが「日光東照宮」です。本記事では、「日光東照宮」にまつわる歴史・見どころをご紹介します。あなたの日光観光が、より充実したものになること間違いなし! それに伴い高僧の来山も伝えられる。中でも弘法大師空海の滝尾神社創建の伝説や、慈覚大師円仁の日光来山の伝説は、勝道上人の開山伝説に象徴されるような山岳信仰の霊場というだけでなく、真言・天台の二つの密教に裏付けられた正統な霊場としての日光の位置を確保し、古代における日光の信仰基盤の重厚さや深淵を高めることとなった。 歴史・文化. 通り一遍の観光で終るのではなく、自然を楽しみながら、先人の足跡を訪ねてみよう。そこには、現代では忘れられてしまった庶民信仰や暮らしの証しが発見できるだろう。, 日光の歴史は、天平神護2年(766)、勝道上人(下野芳賀郡高岡の出身)が霊峰男体山の登頂を志し、大谷川を渡って四本竜寺を創建した時に始まるといわれている。山頂を極めたのは16年後の天応2年(782)で、多くの苦難を伴い三度目の登攀での成功であったという。上人は男体山中腹の湖畔に神宮寺を創建、後にそれが中禅寺として繁栄した。以後、山麓の四本竜寺付近と共に、日光は山岳信仰の拠点として、近郷のみならず広く関東全域からの信仰を得て多くの修験者や僧が入山し、堂社も各所に整備されるようになったという。 徳川家康は、1616年(元和2年)4月17日駿府城(静岡県静岡市)にて75歳で逝去し、直ちに久能山に神葬されました。 一年後の1617年(元和3年)4月15日、徳川家康の遺言により久能山から日光に移されました。 正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、東照社として鎮座しました。1645年(正保2年)に宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。 現在の主な社殿は、三代将軍徳川家光によって1636年(寛永13年)に造替されました。 日光東照宮の設計を行ったのは家康からも厚い信頼を受けていた幕府の大工頭である中井清正(なかいきよまさ)(1565~1619)で、元和3年(1617年)3月に本殿・拝殿・本地堂などの主な社殿が完成し … 歴史・文化. 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられることが多い。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、東照宮の公式サイトがホームページに「日光東照宮」と掲げており[1]、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。, 隣接する仏教寺院の輪王寺は、勝道による日光山開山を奈良時代の天平神護2年(766年)とする。その後、関東地方の霊場として尊崇を集め、鎌倉幕府創始者の源頼朝からも寄進を受けた[2]。頼朝は、母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。, 輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。JR日光駅、東武日光駅にかけて門前町が形成され、参詣者や外国人を含む観光客が多く訪れる[3]。 日光御成道が越ヶ谷〜岩槻〜幸手へ至る道に移したことが始まりです。当時は、江戸〜千住〜617)に家康の霊廟を久能山(静岡市)から日光 最初の日光社参は二代将軍秀忠が、元和3年(1はその道沿いの集 … 日光にある樹齢500年の美しい金剛桜とその由来とは・・・ 奥日光に佇む温泉のあるお寺・温泉寺にいってココロと身体を癒そう! 日光開祖の人物・勝道上人自身が造った立木観音とは・・・ 日光の輪王寺の本堂・三仏堂の歴史とそして現在の姿とは・・・ しかし、慶長18年(1613)、天海が貫主に就任し、元和3年(1617)、家康の遺骸を日光山に遷座、神廟を創設する。ここに、勝道以来、八〇〇年の歴史を基盤に東照大権現鎮座の地、日光山が脚光をあびる。寛永の大造替(1634~36)は全国の匠の粋を集め、1年5カ月という驚くべき日数で落成した。当山は徳川幕府の直轄地となり、旧衆徒の寺跡再興、堂社廟塔の修造、造営も盛んに行われ、家光没後は大猷院霊廟も創建される。さらに、明暦元年(1655)からは、輪王寺宮法親王門跡が全山を統括することになった。日光山の年中行事も規定され、日光ならではの文化も発達し、大いに繁栄する。 日光インターチェンジからは約2kmです。 駐車場は有料で、普通車は約200台駐車できます。 利用料金は普通車が1日600円、バイクは1日400円。 東照宮の概要と歴史 東照宮は、江戸幕府初代将軍の徳川家康を祀った神社です。 日光の社寺では、建造物群と周辺の自然景観が一体となった文化的景観も世界遺産に登録されている。 ... 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著 … 弁覚は頽廃していた堂塔を修営し、光明院を建立、これを本寺として衆徒36坊、小坊300余坊へと発展させた。これを光明院時代といい、彼を日光山中興とも称する。 data; 住所 〒321-1494 栃木県日光市山内2300 電話番号: 0288-54-0531 営業時間: 4月~10月 8:00~17:00 11月~3月 8:00~16:00 また日光は、源頼朝をはじめとする源氏の信仰を早くから得ていることに見られるように、中世において既に、関東における護(まもり)としての位置を築いていたようである。それは、日光山別当が、鎌倉の源氏にとって特別な意味のあった勝長寿院の別当と兼務していた時代が二百年に及んでいたという事実を見ても明らかである。 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田信玄で有名な武田氏の家臣でした。千人同心は武田氏と大変ゆかりが深いのです。 しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。 各地で大名による争いが続いた戦国時代も、豊臣秀吉による天 … 古代から近代まで、恵まれたこの地に多くの人々の足跡が歴史として残された。栄枯盛衰のくりかえしは我々に何を語ろうとしているのだろうか。 れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。バックナンバーはこのページの最後にまとめてあります。 日光に関する基礎用語の解説。随想舎の住所:栃木県宇都宮市本町10番3号 tsビル tel 028-616-6605 fax 028-616-6607 ], 神厩舎には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、猿が馬を守る動物であるという伝承から用いられている。この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっている。日光の木彫像の中で眠り猫に続いてよく知られている、「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿は、この神厩舎に造られたものの1枚に過ぎない。なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えであり、転じて「自分に不都合なことは見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えにもなる。[要出典], 日光東照宮は陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門と、その前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという。そのため、陽明門前の写真店屋のある辺りが気学における四神相応(しじんそうおう)の土地相といわれている。ただし、Google Earth から経緯度を取得すると、江戸城本丸から日光東照宮本殿への方位角は353度16分20秒(6度43分40秒西振れ)となり、およそ南北の位置関係にある。[要出典][独自研究? もちろん、山岳信仰を核とする日光の歴史において、勝道上人の偉業を最重要な拠り所としていたことはいうまでもなく、上人以後、日光山の最高責任者の別当は上人の高弟が継承したことを伝えている。 人物 アーネスト・サトウ 過去のことなのに、日々新しい発見があるのが歴史の世界。映像や音声による記録が残っていない古い時代の出来事を、わずかな文献や物証から少しずつ紐解いて明らかにしていくところが、歴史の楽しさ・面白さに繋がっているのではないでしょうか。 日光山の信仰が確立するにしたがい、勢力も増大。地方豪族とのかかわりによる座主争いも起こる。このための兵火による堂塔焼失などもあったが、やがて、日光山と鎌倉幕府との関係が出来る。文治2年(1186)、源頼朝は当国寒河郡の地、十五町を三昧田として常行堂に寄進している。さらに、承元4年(1210)には第24世座主として、源実朝の護持僧、弁覚法印が補任せられ、日光山の信仰形態は大きく変わる。彼は熊野修験の法を導入し、日光修験の大法を補い、三山形態を確立した。これまでの二神信仰が次のような三神信仰に変わった。 日光の社寺は、その建物の多くは当時の日本を代表する天才芸術家が作った傑作(けっさく)なんだ。周辺の自然と合わせて歴史的にも文化的にも価値があり、神聖(しんせい)な場所であるというところが世界遺産に登録されたポイントなんだよ。 ・日光社寺と史跡 沼尾正彦著 金園社 ・しもつけ物語 人物編 第三集 栃木県連合教育会 ・写真提供(円仁・三仏様) 日光山輪王寺 ・日光パーフェクトガイド 日光観光協会編 下野新聞社 ・たっぷり日光歴史ウォーキング 水曜社 昭和9年、日光は国立公園に指定される。それは言うまでもなく、自然の美と建築の美を兼ね備えた、日本有数の地であったからだ。それ故に、日光は太平洋戦争の戦火も免れ、他に類を見ない文化遺産は、現代に継承されたのである。. 関東屈指の観光地である日光。 その代表格である日光東照宮。 江戸幕府を開いた徳川家康を祭神としていることは有名です。 1999年には「日光の社寺」のひとつとしユネスコの世界遺産に登録されました。 東照宮は意外と広く、重要文化財や国宝などの見どころがいっぱいです。 しかし戦国時代を迎えると、地元の戦国領主である壬生氏による日光山領への介入が顕著になり、やがて豊臣秀吉そして徳川家康の時代を迎えることで、さらに新たな転換を迫られることになるのである。, 日光の歴史の中で最大の画期は、言うまでもなく元和3年(1617)の東照大権現の鎮座である。徳川家康の死後、その霊柩が久能山から日光へ遷座され、東照社(後に東照宮に昇格)が創建されたことで、日光は一気に徳川家の祖廟を祀る霊地となり、江戸幕府の権威を支える重要な拠点となったのである。 弘仁11年(820)、弘法大師空海が登山、滝尾権現を勧請と伝えられる。嘉祥元年(848)には、慈覚大師円仁が来山との伝えもあり、延年舞の古儀はここに始まるという。このように、天台・真言の法流が当山に伝わり、堂社の造営も盛んに行われ、二荒山満願寺と総称されていたとみられる。ところが、平安末期の保延年間(1135~41)には日光山と呼ばれるようになっている。 日光東照宮とは異なる趣となっており、目立たない部分に技巧が凝らされているのが特徴です。 大猷院の建物は日光東照宮の方角を向き、見守るように建っており、家康への家光の敬愛が感じられます。 ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(発展 (はってん) 的な内容および人物もふくまれています)。もっとくわしく知りたいときは、色がついているタイトルの名前をクリック … ]一方、Google Mapを用いた最近の研究では、日光の表参道は東京・上野の旧寛永寺本堂(根本中堂)に0.001544度の振れでつながっていることが分かっている。また、現在の主要施設だけでなく、外山や開山堂や五社(磐裂、久次良、花石、八幡、青龍)など宗教的に重要な施設はそれぞれの位置に大きな意味があると推測される。, 日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。[13], 陽明門は他の社殿と同様、寛永13年(1636年)の造替である。建築形式は三間一戸楼門で、規模は桁行(間口)が約7メートル、梁間(奥行)が約4メートル、棟までの高さが約11メートルである。, 屋根は入母屋造、銅瓦葺きで東西南北の各面に唐破風を付す。正面唐破風下には後水尾天皇宸筆の「東照大権現」の勅額がある。組物は上層が三手先(みてさき)、腰組は四手先で、柱上のみでなく、柱間にも密に組物を置く詰組とする。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で扇垂木とする。初層の柱は円柱で、礎盤削り出しの礎石上に立つ。初層の柱間は地覆、腰貫、飛貫(ひぬき)、頭貫で固め、頭貫上に台輪(だいわ)を乗せる。礎盤形の礎石、貫の多用、台輪の使用、詰組、扇垂木など、細部は禅宗様を基調とする。柱、貫などの軸部材は胡粉塗で白く仕上げ、要所に鍍金金具を嵌める。初層柱には地紋彫を施す。, 地紋彫は屈輪文(ぐりもん)の地の上に丸文を散らし、丸文の中には鳳凰、孔雀、二つ蝶、竜、象、虎、牡丹などを表す。12本の柱のうち1本(背面西から2本目)のみは屈輪文が上下逆さになっており、「魔除けの逆柱」と称されている。また、建物を全て完璧に完成させるといずれ崩壊するという言い伝えから、一箇所だけわざと完璧にせず、崩壊を防ぐという意味もある。, 初層中央間に黒漆塗に鍍金金具で飾った両開き扉を吊り、両脇間は表側に一対の随身像、裏側に獅子一対を安置する[14]。, これらの像の周囲の壁面は胡粉塗に漆箔仕上げの牡丹唐草文の彫物で飾り、欄間(飛貫と頭貫の間)は黒漆塗の地に花鳥の彫刻を貼り付けている。その上方の組物は出組で、斗(ます)や肘木は漆箔とし、組物と組物の間は菊花文の彫物を入れる。初層の地覆、腰貫、飛貫、頭貫などの水平材は柱などと同様、胡粉塗で、頭貫は牡丹唐草文の地紋の上に様々な姿態の唐獅子の彫物を配する。頭貫の木鼻も唐獅子であり、阿吽を交互に配置する。その上の四手先の組物は、斗や肘木を黒漆塗とし、稜線部に金箔を押し、牡丹唐草文の沈金彫を施す。通肘木には鍍金の木瓜形金具を打つ。組物間の空間(琵琶板)には中国の先験や仙人などの人物像の彩色彫刻がある(詳細は後述)。, 組物の四手先目の木鼻は彩色の唐獅子となり、その左右には牡丹を表す。初層の内部天井は中央間(通路部分)が2面の墨絵の雲竜図となり、その周囲には彩色の雲文がある。両脇間の天井は、東が天女図2面、西が迦陵頻伽図2面をいずれも彩色で描く。初層両側面の外壁には金箔の地に彩色の牡丹立木の彫物があるが、これは当初のものではなく、寛延2年(1749年)から宝暦3年(1753年)にかけての修理時に制作されたものである。, 昭和49年(1974年)の修理時に、現在の牡丹図の下から、唐油彩色の鶴錦花鳥図が発見された。唐油とは、桐油、荏油などを顔料の溶剤とした絵画技法である。, 上層は円柱を頭貫でつなぎ、その上に台輪を乗せる。柱、貫、台輪等は初層と同様の胡粉塗とし、柱には松皮菱の地紋彫がある。頭貫の木鼻は竜馬(りゅうば)となる。竜馬は一見、竜と似ているが、前脚に馬のような蹄があることから区別できる[15]。, 頭貫は浪間に竜馬の地紋彫を施し、正面及び背面の中央には大型の蟠竜の彫物がある。上層の柱間装置は、正背面の中央間を黒漆塗の桟唐戸とし、正背面の両脇間および東面・西面はそれぞれ変形の花頭窓とし、鳳凰円文で飾る。中央間の桟唐戸の前にも変形花頭窓形の枠がある。桟唐戸の左右には胡粉塗の昇り竜降り竜の彫物があり、正背面の両脇間および東面・西面の花頭窓の左右には胡粉塗の松竹の彫物がある。, 上層の周囲には高欄をめぐらす。高欄の四隅の柱は逆蓮の柱頭を用いた禅宗様である。この高欄の羽目板には、唐子や植物、鳥などの彩色彫刻がある(後述)。上層の組物の仕上げは初層と同様で、斗や肘木を黒漆塗とし、稜線部に金箔を押し、牡丹唐草文の沈金彫を施す。出桁は群青地の上に牡丹唐草に鳳凰文を描く。組物間の空間(琵琶板)には鳳凰の彩色彫刻がある。上層の組物には尾垂木が上下2段に入り、上段の尾垂木先は竜、下段の尾垂木先は竜と似るが、異なった動物である「息」(読み方は「そく」または「いき」)とされている[16]。, 四隅では尾垂木が3段になり、上段から順に竜、雲形、息となる[17]。「息」という架空の動物の名は、宝暦3年(1753年)にまとめられた『御宮並脇堂社結構書』(『宝暦結構書』)という資料に出てくる。この資料は東照宮内の建築装飾の主題や技法について詳細に記録した書物である。「息」という動物名はこの資料にしか見出せず、「息」の作例も日光東照宮の陽明門と拝殿以外の場所にはほとんど見出せないことから、その正体は謎であり、読み方も「そく」か「いき」か不明のままである。「息」は外見上、竜とよく似ているが、角が1本であること、鼻が豚に似ていることなど、明らかに異なった図像的特色もある[18]。[19], 日光東照宮は社殿もおびただしい数の彫刻で装飾されており、陽明門のほか、表門、回廊、唐門、拝殿、本殿などにも数多くの彫刻がある。総数は5173体で、そのうちの508体は陽明門にある[20]。これらの彫刻は単なる装飾ではなく、徳川家康を「神」として祀る社殿において、様々な象徴的意味を担っている。人物彫刻には中国伝説や故事に取材したものが多く、鳥獣の彫刻には霊獣、霊鳥と呼ばれる、吉祥的意味合いを持つものが多い。[21], 初層組物間には人物像の装飾彫刻がある。これらの題材はいずれも中国のもので、故事、古代の先験、伝説上の仙人などを表している。組物間の彫刻は、正面と背面に各7個、側面には各4個の計22個である。それぞれの題材は以下のとおり(便宜上、各面とも向かって右端の彫刻を(1)として番号を付した)。[22], 正面の7個の彫刻のうち4個は「琴棋書画」(きんきしょが)を題材としたもので、残りの3つは周公旦と孔子にまつわるものである。「琴棋書画」とは琴、囲碁、書(書道)、絵画の4つの技芸を表す。これらは文人のたしなむものとされ、文人の理想の生活を象徴するものである。周公旦は周時代の政治家で、陽明門の彫刻は、彼が賢人を見逃さないために、髪を洗っている時にも人々との面会に応じたという故事を表している。陽明門の初層正面中央にある彫刻は、水盤を前に髪を洗っている周公旦を表し、その向かって右の彫刻は、周公旦に訴えを聞いてもらおうとしている5人の人物を表している。「孔子観河」は、『論語』の「子罕第九」にあるエピソードで、孔子が河の流れを見つめ、「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず」と述べた場面を表している。[23][24], 背面の7個の彫刻はいずれも仙人を題材にしたものである。仙人とは、中国の道教思想における理想的人物で、仙術(超人的な術)を操る不老不死の存在とされている。琴高仙人は鯉にまたがり、黄仁覧、王子喬、梅福仙人はそれぞれ竜、鶴、鳳凰に乗った姿で表される。背面中央の彫刻の題材は費長房とされているが、この彫刻の中に費長房自身の姿はなく、空を見上げる3人の人物がいるのみである。これら3人の見上げる先に空を飛ぶ仙人がいるという設定になっている。[25][26], 東面は北端に虎に乗る鄭思遠、南端に麒麟に乗る張良の彫刻がある。鄭思遠の左は「四睡図」で、天台山国清寺の豊干禅師と、同寺に住した風狂の隠者寒山・拾得が、禅師の手なずけた虎と一緒に眠っている図である。その左の彫刻は七福神のメンバーでもある福禄寿と寿老人を表したもので、寿老人の連れている鹿(玄鹿)もいる。[27][28], 西面は中国の伝説や故事に登場する人物を題材としている。「商山四皓」は、秦代の末期に乱世を避けて商山(陝西省商県)に隠棲した4人の高士すなわち東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生(ろくりせんせい)を指す。「皓」は「白」の意で、4名とも眉や髭が白かったことからこの呼称がある。, 「虎渓三笑」とは、慧遠、陶淵明、陸修静の3名を表した図像である。東晋の高僧慧遠は、廬山の東林寺に隠棲し、俗界との境である虎渓(川)を決して渡らないことを誓っていた。ある日、慧遠のもとを陶淵明と陸修静が訪ねてやってきた。慧遠は訪問を終えて帰る陶淵明と陸修静を見送る道すがら、彼らとの話に夢中になり、気がついたら3人とも虎渓を越えていた。それに気付いた3人が大笑したというエピソードである。, 西王母と東方朔の図は「東方朔奪桃」と呼ばれるもので、東方朔が西王母の園から長寿の桃を盗み出し、800年の長寿を得たというものである。三聖吸酸は大甕を囲む3人の人物(蘇軾、黄庭堅、仏印)を表す。儒教の蘇軾、道教の黄庭堅、仏教の仏印の3人が桃花酸という酢をなめたところ、3人とも「酸っぱい」と言ったという故事で、宗教や立場が違っても真理は一つであるという意味を表す。[29][30], 以上の人物彫刻にはそれぞれの含意があるが、特に正面に位置する彫刻には重大な意味があり、正面中央の周公旦は理想の為政者像として、徳川家康その人のイメージを投影したものとみなされる。仙人の像は、家康の肉体は滅びても、その魂は永遠に生き続けることの寓意とみられ、家康を葬った日光の地が仙境であることを含意するとの見方もある。後述の「唐子遊び」の像は、徳川政権下の天下泰平を寓意するとみられる。[31], 上層高欄の羽目板には「唐子遊び」と呼ばれる装飾彫刻がある。「唐子」とは、絵画や工芸品の題材として登場する、中国の子供のことを指す。羽目板は正面と背面に各9面、側面には各6面の計30面である。30面のうち10面は鳥や植物などの図柄で、残り20面が「唐子遊び」である。それぞれの題材は以下のとおり(便宜上、各面とも向かって右端の羽目板を(1)として番号を付した)。[32], 唐子の彫刻群は、「孟母三遷」と「司馬温公甕割」以外は、具体的なエピソードを語るものではない。「司馬温公甕割」は、司馬温公が幼少の時、誤って大甕に落ちた友人を救うために、高価な甕を叩き割ったという故事を表す[33]。花鳥の彫刻のうち、「鸞」は想像上の鳥で、鳳凰とよく似ているが、尾羽が鳳凰のようにギザギザにならない点で区別される[34]。山鵲は中国などに実在する鳥で、「尾長鳥」と表記されることが多い[35]。瑠璃鳥は実在するスズメ目の鳥であるオオルリ、コルリのことだが、彩色がなければ雀と区別しがたい。[36], 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000年)による。, 日光東照宮 - 日光二荒山神社(別宮本宮神社・別宮滝尾神社) - 日光山輪王寺(大猷院霊廟), なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えであり、転じて「自分に不都合なことは見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えにもなる。, (工藤、1989)ではこの動物の名を「ヨウ」(獣偏に「恙」)としているが、ここでは(高藤、1999)に従い「息」とする。, 彫刻の主題の特定は主に(工藤、1989)、p.50によるが、鳥の名前については(高藤、1996)、p.141によった。, 本地堂と経蔵の2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中であり、財団法人日光社寺文化財保存会が文化財保護法の規定による「管理団体」に指定されている。, 家庭画報 INTERNATIONAL Japan EDITION 2015年秋冬号, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=日光東照宮&oldid=81249704, 昭和42年(1967年)6月15日 - 本殿の「附」として旧妻戸2枚と箱入大工道具一具が追加指定。, 昭和48年(1973年)6月2日 - 旧奥社唐門、同鳥居の2棟が上記40棟とは別件で重要文化財に指定。, 昭和52年(1977年)6月27日 - 陽明門の「附」として旧天井板2枚が追加指定。, 工藤圭章「彫刻と彩色で飾る日暮御門」『不滅の建築12 東照宮陽明門』(毎日新聞社、1989年)所収, 『日光東照宮の装飾文様 植物・鳥類』(グラフィック社、1994年。解説:高藤晴俊), 『日光東照宮の装飾文様 人物・動物・絵画』(グラフィック社、1994年。解説:坂田泉、河野元昭), 坂谷徹念「地理情報サイトで検証」(2017)(古今書院、月刊「地理」748号112-113頁). 日光御成道が越ヶ谷〜岩槻〜幸手へ至る道に移したことが始まりです。当時は、江戸〜千住〜617)に家康の霊廟を久能山(静岡市)から日光 最初の日光社参は二代将軍秀忠が、元和3年(1はその道沿いの集 … そしてそのような民間の信仰の支えとして日光山は隆盛期を迎えることになるが、当時の日本における他の大寺社勢力の例にもれず、広範囲の寺社領を領有する大寺院(大神社)の様相を呈していくのである。「往古社領六十六郷」といわれる寺社領は、現在の日光・足尾・今市・藤原・栗山・鹿沼・粟野・宇都宮の各域に及ぶもので、大きな寺社勢力となった日光の経営を支える地域であった。 ・ 日光山 (にっこうさん) 中興 (ちゅうこう) の 祖 (そ。) 戦国 せんごく 時代: 道興 どうこう ・ 京都 (きょうと) 聖護院 (しょうごいん) 門跡 (もんぜき) 。 歌人 (かじん) 。 文明 (ぶんめい) 18年(1486) 日光来訪 (にっこうらいほう) 。 宗長 そうちょう 西暦/年号 旧日光市の歴史; 1926年 (大正15年) (昭和元年) 5月、所野小学校に実業補修学校を併設。 6月19日、町立日光高等女学校が認可される。 ゆかりの人物一覧 天保元年(1830)~明治36年(1903) 西郷家は、会津藩にあって代々家老職を務める家柄で、その長男として生まれた近悳は文久二年(1862)三十三歳で家老に任じられた。 歴史上の人物 宇都宮朝綱 (鎌倉時代の豪族で御家人、 左衛門尉 、宇都宮社務職。 奥州合戦 で活躍し、 源頼朝 から「坂東一の弓取り」と賞賛された):下野国宇都宮城主(現宇都宮市) ・ 日光山 (にっこうさん) 中興 (ちゅうこう) の 祖 (そ。) 戦国 せんごく 時代: 道興 どうこう ・ 京都 (きょうと) 聖護院 (しょうごいん) 門跡 (もんぜき) 。 歌人 (かじん) 。 文明 (ぶんめい) 18年(1486) 日光来訪 (にっこうらいほう) 。 宗長 そうちょう 日光東照宮は1617年4月17日に栃木県日光市に創建されました。創建理由は家康公の遺言がきっかけです。 以心崇伝いしんすうでんという僧が書いた『本光国師日記ほんこうこくしにっき』には、以下のように遺言の内容が記されています。 上記の内容を簡潔に説明すると下記のようになります。 1616年6月1日に家康公は亡くなりました。 そして上記の遺言通りに、ご遺体はまず静岡県久能山に葬られたようです。 その後一周忌が過ぎた翌年の1617年に、家康公を日光山にお祀りしました。 そして1617年4 … 日光に祀られたのは、家康自身の遺言で一周忌が過ぎたら日光山に勧請し、関東八州の鎮守となることを願っていたからといわれる。その遺言を実行して日光に立派な社殿を造営し、東照大権現という神として祀った人物は、日光山貫主の天海大僧正であった。その後、寛永13年(1636)には、社殿の全てを建て直す「寛永の大造替」が行なわれた。天海と将軍家光による大断行で、現在に伝わる豪華絢爛な社殿と結構美がこの時に整えられたのである。また社殿のみならず御神領といわれる近隣の所領も寄進され、経済基盤も固められた。そしてさらに日光山の最高責任者として法親王(皇族)が迎えられる慣行となり、「輪王宮」として歴代継承することとなった。 日光は奈良時代の766年に勝道上人が訪れ、開山されました。日光連山の霊山と言われている「男体山」からは、男性的な力強いエネルギーを、「女峰山」からは 女性的な柔らかで優しさに包まれたエネルギーを受けていると言われています。 勝道上人は、そういった神聖な土地である大谷川の北岸に二荒山大神をまつり、山岳信仰の聖地として開山しました。江戸初期に徳川家康の霊を祀る東照宮が建てられるまでは、山岳信仰の聖地として山に伏して修行する山伏が多く訪れていたそうです。 山岳信仰が盛 … ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(発展 (はってん) 的な内容および人物もふくまれています)。もっとくわしく知りたいときは、色がついているタイトルの名前をクリック … 日光カステラ本舗本店は、日光東照宮から徒歩8分です。日光観光のお土産に、またはお付合いのある方へのお使い物をお探しの方へ【金箔入り日光カステラ】を中心としたお土産販売をさせていただいてお … 徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉と並ぶ「戦国三英傑」と称され、歴女のみならず高い人気を有する武将です。死後は「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)の神号を授けられ、絢爛豪華な「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)に祀られています。 この後、日光山に皇族座主の時代がおとずれる。彼らの多くは天台座主を兼務し、常には鎌倉に居住し、当山の執務は御留守居座禅院が扱った。応永27年(1420)、第37世慈玄大僧正が退任以後は、座主の宣旨は廃絶する。その後は当国壬生一族の昌瑜法印が座禅院で執務を行い、慶長18年(1613)の昌尊法印まで14代、代々壬生氏が権別当職を務めた。室町期の日光山は関東の一大霊場としてその名を誇り、院々僧坊500余坊とも伝えられ、日光修験や日光文化の全盛時代となる。 日光の歴史は自然環境とあいまって発展したと言っても過言ではあるまい。東照宮や大猷院の伽藍、二荒山神社や滝尾の社殿は老杉と調和し、地形は神秘性をかもしだす。 男体山 - 千手観音 - 男体権現 - 大巳貴命 - 新宮 日光東照宮は、日光霊峰の山懐聖地恒例山にあり、中禅寺湖から流れる大谷川と女峰山から流れる稲荷川との河合いの山岳水明の地に鎮座します。神域は、樹齢400〜800年神杉につつまれ、その中に点在する社殿群は自然環境と見事に融合する宗教的文化空間です。 特に中世に入ると、男体-女峰-太郎の三山に、それぞれ神(男体権現-女体権現-太郎権現)と仏(千手観音-阿弥陀如来-馬頭観音)が宿るという日光三所権現信仰が新たに広まった。そうした信仰が、『日光山縁起』にみられるような赤城明神との戦などで知られる神話として民間に流布するようになっていくのである。 紅葉のシーズンになると、観光客が大勢訪れる日光。そのもっとも著名な観光スポットが「日光東照宮」です。本記事では、「日光東照宮」にまつわる歴史・見どころをご紹介します。あなたの日光観光が、より充実したものになること間違いなし! 日光中禅寺湖の歴史を語る上では欠かせない人物です。 アイルランド系英国人実業家の父と日本人の母の間に生まれた実業家。 神戸のハンター財閥の次男。 日光担当スタッフおすすめの日光を訪れたら絶対に外せない観光スポットランキング!「日光東照宮」「華厳ノ滝」などの定番以外にも、「竜頭の滝」や「小田代ヶ原」などの穴場観光地、女子旅や子供におすすめの名所などをご紹介します。 江戸幕府を開いた徳川家康とくがわいえやすがこの世を去って約400年の月日が流れました。 江戸幕府は264年もの長い間続き、その後、明治、大正、昭和と年号を変え現代の平成に至っています。 徳川家康はこの間も、子孫や関八州などを見守ってきたと思われます。 会津武家屋敷は歴史感動ミュージアム|会津若松の歴史・観光・教育旅行 > 武家屋敷 場内詳細案内 > ゆかりの人物 ... 明治五年(1872)、謹慎を解かれた容保は、同十三年(1880)、日光東照宮の宮司に任じられ、その後いくつかの職を務めた。 参考1 【日光 二荒山神社 観光】本社・奥宮・中宮祠・本宮 4つの違いからわかりやすく解説. 参考2 【日光二荒山神社別宮 本宮神社&四本龍寺 観光】日光や日光山がどうして聖地となったか?ここにルーツあり. 日光市内には、歴史と文化の薫り漂う路地裏の玉藻小路店と、御用邸正門通りに佇む古民家風の御用邸通店の2店舗があります。 日光観光のくつろぎスポットとして、自慢のコーヒーと手作りスウィーツでほっと一息、心が和むひとときが過ごせます。 女峰山 - 阿弥陀如来 -女体権現 - 田心姫命 - 滝尾 日光カステラ本舗本店は、日光東照宮から徒歩8分です。日光観光のお土産に、またはお付合いのある方へのお使い物をお探しの方へ【金箔入り日光カステラ】を中心としたお土産販売をさせていただいてお …